2006年03月31日

岡島昭浩「「漢字文化圏」とは」

『2004-2005年度大阪大学大学院文学研究科共同研究報告書 台湾における日本文学・国語学の新たな可能性』所収。
kanjibunkaken.pdf

念のため、申し添えますが、これは「著作権の切れた資料」ではなく、「著作權者が公開を了承した資料」です。


印刷されたものは、見づらくなっております。自分が出したファイルだから仕方無い、と思っていたのですが、自分の作ったファイルを見てみると、こちらのほうが、やや見やすいので、それも載せておきます。こちらはファイルサイズが小さいのもお得です。
kanjibunkaken00.pdf




「漢字文化圏」とは
岡島昭浩(大阪大学)

キーワード:文化圏,漢字文化,漢文化圏,漢語文化圏,同文同種

1.
 大阪大学の岡島です。

 この場では、「漢字文化圏と古典」という題目でのセッションのコーディネーターを努めるわけですが、まず、この「漢字文化圏」というのが何であるのかを押さえておきたいと思います。プリントに、山田俊雄氏の文章を載せておりますが、「漢字文化圏」というと何か分かった気がするものの、これが「漢字文化の圏」であるのか、「漢字の文化圏」であるのか、と問われてみると、さてどちらであろうと首を傾げる人も少なくはないでしょう。
 この問題を考えるためには、漢字文化圏という言葉が、いつ頃、だれによって作られたのかを知らなければなりません。この語が広く知られるようになったのは、プリントに2枚目に挙げております、藤堂明保氏の「岩波講座世界史』によってでありましょうが、藤堂氏が最初ではありません。
 『漢字講座』や、それを再編増補した『漢字百科事典』などには、中村完氏によって、それが河野六郎氏の手によるものであることが示され、その初出は、平凡社の「日本語の歴史」とのことです。これは別巻を含めると全8冊になるものですが、その第2巻『文字とのめぐりあい』がそれです。この『日本語の歴史』というシリーズは各巻の表紙に、スクリーンに映しておりますように、短い紹介文がついております。手許に第2巻の表紙が見当たらなくなってしまいましたので、映し出すことは出来ませんが、プリントに載せておりますように、「東アジアにひろがった漢字文化圏の東方海上に、ぽっかりと浮かぶ日本語列島」という具合に、かなり目立つ形で「漢字文化圏」という語が提示されて居ます。また本文のほうには、かなり詳しく、漢字文化圏というものについて書いてあります。
 この語のはじまりについては、鈴木真喜男氏の証言もあります。1950年代に、河野六郎氏を含む漢字音研究グループの中で言い始められたものだということです。上に挙げた『日本語の歴史』も河野六郎氏を含む人々によって書かれたものです。
 しかし、河野氏が単独で書かれたものを見て参りますと、「漢字文化圏」という言葉では出てこず、出てくるのは「漢文化圏」です。また『文字とのめぐりあい』に河野六郎氏が寄稿したものの英訳という論文を見てみると、
 the cultural zone of China
 the Chinese Cultural Zone
 the Zone of the Chinese Culture
となっていて、Chinese characterのzoneにはなっていません。河野氏が「漢文化圏」で寄稿したものを、最終的な編者である亀井孝氏が「漢字文化圏」に書き換えたのではないか、という予想が頭をもたげます。亀井氏は、鈴木真喜男氏が証言したメンバーの一人でもありますし、他の人が寄稿したものでも、『日本語の歴史』の形とその人が別のところで発表した形と比べると、語句が違っているものもあります。亀井氏は、これよりも早く、「漢語文化圏」という用語を用いていますが、この『日本語の歴史』で、「漢字文化圏」という用語を前面に出したのは、亀井孝氏であろうという感が強く致します。河野氏も後には、「漢字文化圏」という用語を使うようになり、かつて「漢文化圏」と書いていたものを、著書に入れる際に「漢字文化圏」と改めていることがわかります。

 さて、「漢字文化圏」という用語が、河野六郎氏によるものであるのか、亀井孝氏によるものであるのかという詮索はさておき、「漢字文化圏」という言葉がいわれだした時期における、「文化圏」という用語について押さえておきたいと思います。「文化圏」という語は、民族学・文化人類学の方でいわれだしたもので、ドイツの民族学者シュミットのkulturkreisの訳語です。
 シュミットが言語学者でもあったこともありますし、日本においても方言学と民族学が近いものであったこともありまして、この「文化圏」という用語は、早く日本の言語学者にも使われるようになり、たとえば、台北帝大の総長にもなった安藤正次なども使っております。
 「漢語文化圏」という括り方は中国語文化圏という、シュミット一派の言う「言語圏」と近いものかと思わされますが、「漢字文化圏」と呼ぶと、言語の違いを超えた文化伝達の道具としての「漢字」の力が強く認識されることになります。

 プリントに書いておりますように、明治時代から、ここにいう漢字文化圏のことを「同文同種・同種同文」という言い方でくくることが盛んに行われていました。
 同種というのは、当初は、西洋のいわゆる白色人種に対して東洋の黄色人種という意味合いで使われ始めたものと思われますが、後に民族が同じであるという意味に替えられて、日本の植民地政策に利用されてしまいました。そのこともあって、戦争後、この「同文同種」という言葉は使われないようになって行きました。使われる際には、必ずの様に、「日本語と中国語は同文同種ではない」という言い方です。「同種」でないのはもちろん、「同文」でもない、という言及も多くなされます。
 明治時代までの日本の文化人は漢文、すなわち、中国語の文語に通じているのが普通でした。そのことで、「漢字文化圏」の中では、文字言語で交流を行うことが可能でした。日本で古くから行われている漢文訓読は、文語中国語を日本語で理解しようというものでした。また、漢詩文を多く作る日本人も数多くいて、これらについては、仁木パネリストなどからお話があります。これとは逆に、「和文漢読」ということが、清朝末期の中国で、梁啓超などによって言われました。西洋文明をいち早く取り入れて翻訳した日本語の文を、日本語がわからない中国語話者でも読める、ということが言われたのです。また、漢字文化圏の人々同士が会った際に、筆談で会話がなされると言うことはよく行われ、その際の記録が、数多く残っております。
 印度の文化圏から中国に渡来した仏教が、日本にまで伝わったのは、仏教の経典が漢訳、漢字に翻訳されたことによるものが大きいといえましょう。海野パネリスト、平松パネリストからのお話と関連することころです。

 ところが、こうした伝統は、漢文的教養の衰退とともに弱まって行きました。日本語の文章も言文一致体や表記の変化により、「和文漢読」では読みがたくなってきていることは、すでに周作人も指摘しているところですし、逆に中国語も白話文や現代中国語を日本人が理解しようとする場合に漢文訓読では行いにくいことは、このあとの加藤パネリストからのお話でも触れられるところです。

 「漢字文化圏」というまとまりは、古典的素養が背景にあった、ということを視野に置いておかなければならないものであり、それを視野に入れずに「漢字文化圏」ということを考えて行こうとすると、かつての「同文同種」と同じような誤解を招きかねない、ということをお話しして、今回の「漢字文化圏と古典」というセッションテーマの発題としたいと思います。
[当日配付資料]
       国際フォーラム「台湾における日本文学・日本語学の新たな可能性」
       Session1 漢字文化圏と〈古典〉   2004.12.12  於:長栄大学

{見出し1}          「漢字文化圏」とは
                               岡島昭浩  大阪大学大学院文学研究科
                               okajima@let.osaka-u.ac.jp

「漢字文化圏」ということばが用いられてから、恐らく二十年位は経過するだろう、日本もその「漢字文化圏」の東の周辺を形成しているというわけであるが、その標紙を貼布したところで、何が明確になったのか。大陸文化の影響の下に育った日本文化を、文字・言語の領域に注目する時、「漢字文化圏」という語は、便利なことばとして用いられよう。しかし、「漢字文化=圏」とは何なのだろう、また、「漢字=文化圏」とは何なのだろうか。「アルファベット文化圏」などという概念も成立するのか。これに答える必要は、今、必ずしも無さそうである。むしろ、呪文のように、そんなことばを好んで用いること自体が問題ではないか。
山田俊雄「漢字とかな」(『伝統と現代』45(1977.5)p56-62)(山田俊雄『詞林間話』角川書店1987 p219-230)




「漢字文化圏」という用語を最初に提案した河野六郎執筆の『日本語の歴史2文字とのめくりあい』昭和38年、平凡社
中村 {ルビ たもつ}完{/ルビ}「漢字文化圏の展開」p133(『漢字講座1漢字とは』明治書院1988.5.30 p117-134)



漢字文化圏 中国文化が漢字を通して周辺の諸民族に影響を与えそれぞれ独自の文化を形成する。この用語は河野六郎(一九六三)によって初めて提唱された。
『漢字百科事典』項目執筆 中村完 p109 1996.1.19 明治書院




「東アジアにひろがった漢字文化圏の東方海上に、ぽっかりと浮かぶ日本語列島−それは漢字と異系の言語とがふれあう孤立した実験室にほかならなかった。そこで、漢字を溶融しながら、日本語はその新しい景観をくりひろげてゆく」
『日本語の歴史2文字とのめくりあい』1963.12.17、平凡社(執筆・資料提供 堀江知彦・池上禎造・亀井 孝・河野六郎・宮内庁・頼惟勤・静嘉堂文庫庁・関 晃・玉井良子・東洋文庫・築島 裕・山田俊雄)表紙



 ひろくシナ文化の恩恵に浴したかぎりのアジア諸民族は、漢字とのめぐりあいによって、あるいは直接に、あるいは間接に、その土語を文字であらわそうとする試みと経験をみせている。そういう意味で、シナ文化の洗礼をうけたこれらの民族文化は、文字の面に即してみるなら、これを〈漢字文化圏〉とよぶにふさわしい文化圏を形づくったといえるであろう。日本語と漢字との邂逅――それにつづく日本語の文字化をもふくめて――は、のちに述べるごとく、なかでも特異なケースではあったけれども、漢字文化圏のうちに興亡消長した諸民族の土語が、ひとしく経験した土語の文字化の一例にほかならない。
 ひと口に〈漢字文化圏〉といったが、それはシナ本土を中心に、広大なアジアの東方を占めるひろい地域にかぶさっている。まず、西はチベットにおいてインド文化圏に接し、一方、南へ延びては、ヴェトナムにおよび、ここでも、カンボディア、ラオス、タイなどをおおうインド文化圏と接するが、チベットはもちろん、南方のこれらの土地でも、インド系文字が採用されていることに注意しておこう。
 さらに南にむかえば、そこはミンダナオ島、ボルネオ島、大スンダ列島などイスラム・インド両文化圏の複雑に交錯する地域である。一方、北に目をやれば、内陸アジアの高原地帯にモンゴル族やトルコ族など、遊牧民族の舞台がひろがる。彼らのもつ遊牧的な性格は、シナ文化ときわめて異質であったらしく、漢字文化は、その本質にまで浸透するにはいたらなかった。
同書p88-89 また、『日本語の歴史7世界のなかの日本語』1965.8.31。



有坂博士の早逝《岡島註:1952年43歳》をおしみ、漢字音研究の進展をねがわれた先生の御命令で『国語音韻史の研究 増補新版』のしごとを援助された、河野六郎・亀井孝・{ルビ みねや}三根谷{/ルビ}徹の三氏に、頼{ルビ つとむ}惟勤{/ルビ}氏・北村{ルビ はじめ}甫{/ルビ}氏、そして、わたくしとで、漢字音研究の会がもたれるようになった。このはつしごとが、「漢字音発達史の総合的研究のための基礎資料の蒐集ならびに整理」である。近時、次第にもちいられるようになった"漢字文化圏"ということばも、この会で、つかいはじめた用語なのである。
鈴木{ルビ まきお}真喜男{/ルビ} 「先生と『上代音韻攷』」(『金田一京助先生思い出の記』1972.11.14三省堂 p242-244)



【漢文化圏】
古代中国を中心とする{下線}漢文化圏{/下線}はその近隣の諸国を包含するが、その中で朝鮮・日本・越南は長い間、漢字を使用し、漢字文化によって育成されて来た。
河野 六郎「文字の本質」『岩波講座日本語8文字』1977.3.29 p9 (『著作集3』p113)(『文字論』p9,p10では「{下線}漢字文化圏{/下線}」)



[他言語との交渉】地理的にも{下線}漢文化圏{/下線}に属し、文字もそれからの借用と、それから発生したものとを使っている。語彙の借用が、ここでは文字とからまるために、国語に及ぼした影響ははかり知れないほど大きい。
{ルビ いけがみていぞう}池上禎造{/ルビ}「日本語」『国語学辞典』1955.8.20



【漢語文化圏】
日本は、ながい時間をつひやして、{下線}漢語文化圏{/下線}の一員となり、また、みづから漢語の文化をうちたてたものであるが、
亀井孝「日本語の現状と述語」(1948.11)『思想の科学』3-9(『亀井孝論文集1 日本語学のために』吉川弘文館(1971.6)による)



Kono Rokuro The Chinese Writing and its Influences on the Scripts of the Neighbouring Peoples
(Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, No.27, 1969)『河野六郎著作集3』1980.1.25 平凡社 p15-p106 (「平凡社刊の「日本語の歴史」第2巻の前半に筆者が寄稿したものの英訳」)
the cultural zone of China (p32)
the Chinese Cultural Zone (p38,p43,p46,p89)
the Zone of the Chinese Culture (p91)



河野六郎「隣接諸民族語における漢字の適応とその発展」(河野六郎『文字論』1994.9.20三省堂。「もとの筆者の稿文に多少の補筆を加えて」)
「漢字文化圏」



用語の流布
 {ルビ とうどうあきやす}藤堂明保{/ルビ}「漢字文化圏の形成」『岩波講座世界歴史6東アジア世界の形成V』1971.1.18


 藤堂明保『漢字とその文化圏』中国語研究・学習叢書 光生館 1971.11.10
 この書の内容のあらすじは、さきに岩波書店の講座『世界歴史』第六巻15の「漢字文化圏の形成」という一章においてのべたものである。


 藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書1982.9.20
 「V漢語と日本語」の部分は、岩波講座『世界歴史6』所収の「漢字文化圏の形成」という論文と、『漢字とその文化圏』(光生館)を元にして簡略にし、かつ筆を加えたものである。そのさい『日本語の歴史2・文字とのめぐりあい』(亀井孝ら編集、平凡社から多くのヒントを得たことをあらためて感謝する。

【漢字文明圏】
西田竜雄『漢字文明圏の思考地図』PHP(二十一世紀図書館42)1984.6
 「東アジア文字文化圏」


【文字文化圏】
(1)漢字文化圏・(2)シュメール文字文化圏・(3)エジプト文字文化圏・(4)ローマ字文化圏・(5)その他
杉本つとむ・岩淵匡『日本語学辞典』1990.10.25 桜楓社 p164-165

漢字文化圏・インド文字文化圏・アラビア文字文化圏・ラテン文字文化圏
黒田龍之助『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門―』現代書館 2000.7.15 p201-202


{見出し2}【文化圏】
 比較的に広大な一地域、例へば一大陸の全部に亙つて、個々の文化領域とその種々な接触地帯および混合地帯を探究して見ると、かういふ事実を発見する。即ち個々の文化領域の相互間にどれほどの差異があらうとも、それぞれの包含する或る一定数の要素は、あの地でもこの地でも常に同様の結附きを示してゐることである。これらの要素といふのは、文化生活のあらゆる必要部分――物質的および経済的文化、社会的・道徳的および宗数的文化――に食ひ込み、従つて、これらの個々形態によつて或る一定の性格を刻みつけられた文化の全体を、或る程度に包括してゐるといふやうな要素である。かういふ個々=文化領域の全体を、{下線}文化圏(Kulturkreis){/下線}と名づける。これらの個々領域がかやうな一文化圏に共属するといふことは、個々の符合点が数多く存することから帰結されるのである。
W・シュミッド著/大野俊一訳『民族学の歴史と方法』1944.10.18 彰考書院 p148
W. Schmidt und W. Koppers "Gesellschaft und Wirtschaft der Volker" Regensburg : Josef Habbel 1924


フリッツ・グレーブナー著/小林秀雄(立教大学文学部史学科教授 1876生)訳『民族学研究法』十字屋書店 1940.10
F. Graebner "Methode der Ethnologie" Carl Winter's Universitatsbuchhandlung, 1911



(ロウイーはdiffusionistとして)独の「民俗学方法論」の著者グレプナー、アントロポスの将師シュミット、即ち一般に所謂文化史学派、{下線}文化圏説{/下線}と名付けらるゝものの唱道者たちの一団とを挙げている。
板沢武雄「海外学会消息」(『民俗学』2-1(1930.1))p73


安藤{ルビ まさつぐ}正次{/ルビ}『国語科学講座 国語発達史序説』(1935.3.31 明治書院)に「小文化圏」「文化圏」あり。
(台北帝国大学総長)



{見出し2}【漢字文化】
これを見るといかに{下線}漢字文化{/下線}の修得が困難であったか、従って自覚的・組織的教育の進歩・普及がいかに漸進的であったか想像以上のものがあるのである。
高橋{ルビ しゅんじょう}俊乗{/ルビ}『日本教育文化史』(1933)(講談社学術文庫p51)
現在の文化は一言にして云へば,{下線}漢字文化{/下線}であると断じても過言で無いのである。ところが明治以来、欧風心酔の風は{下線}漢字文化{/下線}への圧迫と成り漢字廃止論や漢字制限論が現はれるに至り、{下線}横文字文化{/下線}にかぶれ、横文字を有難がる連中は、漢字を蔑視若しくは敵視するに至つたのである。
 岡田{ルビ よしお}希雄{/ルビ}「一流無辺訥語―岡井(慎吾)博士の日本漢字学史を読みて―」『立命館文学』2-4(1935)



【文字文化】
文字文化展覧会 カナモジカイ・国語協会 1935.11.1
後藤{ルビ あさたろう}朝太郎{/ルビ}『文字講話』(1943.1.18 黄河書院)


【言語文化】
 今日文学研究の法未だ邦人の間に明ならず、哲理を交へ、実感を挿む等の如きものあるは、近世文献学の研究法別に存するを辨ぜざるに座し、{下線}言語文化{/下線}の緻密なる考察に力を仮らざればなり。
上田{ルビ びん}敏{/ルビ}「細心精緻の学風」『帝国文学』二巻八号 1896


『日本語の歴史7世界のなかの日本語』「言語文化の諸相」1965.8.31
(執筆・資料提供 古田東朔・亀井 孝・河野六郎・大藤時彦)



{見出し2}【同文同種・同種同文】

東亜同文書院の開院式 同開院式は昨日午前十時より、新たに購入したる神田錦町の壮麗なる校舎構内にて挙行せり。式場は天幕を張り、卓子を排列して着席に供し、五十名ばかりの留学生は一様に洋服を着けて、中央に着席し、来賓はその左右に整列せり。席定まるや、近衛公は{下線}同文同種{/下線}の義務を全うせんとしてこの院を設立して、今日の盛大を致したることを祝して、大いに留学生の奮発を促す旨を演説し、
〔1902.1.20 報知新聞〕(『明治ニュース事典6』による)

東亜同文会は、東京の万世倶楽部で発会式〔1898.11.5 日本〕


大きなる所より着眼すれば日韓は原来{下線}同種同文{/下線}の国にして祖国を同うし、言語の系統を同うし、
{ルビ やまじ}山路{/ルビ}{ルビ あいざん}愛山{/ルビ}「韓国の政党及其領袖」『太陽』第一六巻二号 1900.8.1


新字体にあらためた。ルビは岡島による。


【補】
はてなダイアリーキーワード漢字文化圏

posted by うわづら文庫主人 at 04:01| Comment(1) | TrackBack(1) | 国語学論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Wikipediaの記述で、「亀井孝が自分で作ったといっている」というのがありましたので、Wikipediaで質問してもよいものかと思いながらも「ノート」でたずねてみたら、『現代思想』に載った田中克彦によるインタビューであることを教えていただき、確認しました。

推測があたった、と言えましょうか。でも、私が考えなくてもよかった、とも言えます。
Posted by 岡島昭浩 at 2007年06月19日 17:18
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引用者によって字句が変わること。「同文同種」「同種同文」
Excerpt: 「同文同種」
Weblog: ことば会議室
Tracked: 2006-04-01 01:33
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