長野確、字は孟確、豊山と號す、父名は祐清、伊豫川ノ江の人、七歳にして句讀を郷師宇田川南海に受け、弱冠にして浪華に遊び、中井竹山に師事す、竹山歿し、笈を負ふて江戸に至り、柴野・尾藤・古賀三博士に見え教を受け、初め曾て神戸本多侯に仕へたるも、一朝病と謝し官を辭し、退いて家居し、刻苦書を讀み、古文を學ぶ、性狷介世に媚ぶる能はず、志を得ずして歿す、享年五十五、時に天保八年八月二十二日なり,
此書は詩話・文話以外に、學術談あり、歴史談あり、修養談あり、書畫筆墨硯紙印章の談あり、若し夫れ徂徠南郭東涯鳩巣諸儒の詩文學術を月旦するが如き、尤もその識見を見る、此書早く清國に傳はり、昭代叢書癸集に收められたり、原書の分卷を廢し、合せて一卷とし、且つ序文を省けり、卷内時に字句を刪れる處あり、
第一卷末章の末尾の噫の字を削り、第三卷末章の末尾の一句を削るが如き、是れなり、殆んど何の意なるを知らず、皆大義に關する所に非ず、故に今一々之を校勘せず、一篇の跋丈、今これを卷末に附載す。(京都書林積玉堂梓行)
松陰快談.pdf
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