2005年03月13日

藤村作「國語教育論」(岩波講座日本文学)

 國語教育といふ言葉の内客は、普通二つの意味に解釋される。一つは狹義の解釋で、主として語學的な知識又は技能に關する教育といふ意味であり、も一つは廣義の解釋で、國語に對立するものとしての國文學をも合はせて、その兩者に關する教育といふ意に解釋するのである。即ち一は日本語の特質・法則・用法等について正確な知能を與へることを素にするものであり、二は更にその上に日本文學について解釋・批評・鑑賞を試みることを要旨とするのである。しかし教育に關する法規に於て、單に國語と稱してゐる場合は、たいてい狹義の意味でなく、廣義の意味に解釋するのが普通のやうであるから、今は便宜上、國語・國文學を統一した廣い意味に解しておくことにする。從つて、以下國語教育といふは、國語・國文學教育といふ意味であることを、お斷りしておく。
 國語教育に關する問題は廣汎であつて、ここではたうてい全般に亙つて論することは出來ない。特に方法論に關する問題は多岐に亙るので、今は全然ふれないことにし、特に目的觀に關する方面だけを少しく詳細に考へて見たいと思ふ。
 最近數ケ年に於ける國語教育の思潮ならびに方法上の變化には著しいものがある。それは國民教育の全面に亙る進歩發展に伴ひ、國語教育の理論及び實際に關する諸問題が、特に熱心に論議研究された結果であつて、教育界はもとより、國家のために慶賀すべきことである。
 しかしながら、ここに注意すべきことは、かくの如き國語教育思潮の變遷の中に、果して國民教育の根本精神に對する眞摯なる反省があつたか、國語・國文學の形態及び特質に對して、十分なる學問的認識があつたか、外來の教育思潮ならびに文學理論に對して、聰明にして公不なる批制があつたか、流行摸倣雷同の中にあつて、果して敬虔にして眞面目なる内省があつたかといふ事についてである。
 現代の國語教育の理論及び實際は、前時代のそれに比して、たしかに全體としては進歩發展を示してゐる。しかし、それと同時に、日本精神に對する反省の缺如、國語・國文學そのものに對する學問的認識の不足、外來思潮に對する根柢なき摸倣、流行に對する批判なき雷同等が國民教育としての國語教育の大道を誤りっつあることも、また疑ふべからざる事實と云はねばならぬ。我々が國語教育の現状に對して、一は喜び、一は憂ふる所以は、即ちここにあるのである。

hujimura_kokugokyoiku.pdf


posted by うわづら文庫主人 at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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