年二月二十一日に五十九歳で死んで居ります。
先づこれだけの事はわかつて居りますが、その外には畫を谷文晁に習つたので、黄表紙の中には自畫のものがある、といふことがわかつてゐろ位のものです。この人の作としては、黄表紙、合卷、讀本,咄本、中本といふ風に、隨分いろ/\な作物があり,總計では五十種を越えてゐる按配であります。その鬼武の著作の中で,毛色の變つてゐるのが「舊觀帖」でありますが、その
外に思ひもよらぬ鬼武の著作が一つある。それは文化元年に出した小本の一冊物で、「國字詩階梯」といふものであります。
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これは和詩とも云はれるところのもので、嘗て支考が首唱し、その後美濃派の俳人の中には、和詩を作る者が後々まであつたやうです。明治になつてからは新體詩が盛になりましたが,猶三十七八年戰役の時分に,幸田露件翁が大變長い詩篇を「讀賣新聞」に連載て後に「出廬」といふ名前で單行本にしたのがある。あの露伴翁の長詩は、和詩の方の系統に屬するもので、新體詩
の系統ではないやうに見える。文化元年に鬼武が「國字詩階梯」を出しました時分は、美濃派の俳人に和詩の作者が無かつたわけではありませんが、その他には殆ど作家が無い。美濃派の方でもあまり多くは無かつた樣子であります。
この和詩といふものは,今樣とは達つた形と心持とを持つたものでありまして、我國の韻文の上に、慥に一種變つた形を持つてゐるやうに思ひます。それを鬼武が文化度に於て、弘めようと致しましたことは、別段な成績は得て居りませんけれども,注意すべき事柄だと云はなければなりません。然るに今日日本の韻文の事を云ふ人(参考)が、和詩の事は全く度外視してゐるやうに見える。從つて鬼武のこの著作なども、殆ど知られて居らぬやうですが、これは抛却して置くべきことではあるまいと思はれます。
早かつた自來也の上演
又讀本と致しましては、文化三年から四年のところへかけて、「自來也説話」前編六冊、後編五冊といふものを出して居ります。こゝに曉鐘成の「噺の苗」の本文を出して置きますが、この「自來也説話」は時を移さす、大坂で芝居に仕組まれてゐるのであります。
文化四年九月廿一日より道頓堀太左衞門芝居において、新狂言興行をなす、
柳が淵に縁の糸すじ
かゞみの浦に願ひの仇討
柵自來也談
右は東都滑稽者鬼武の著述せし自來也話といへる小説本なり、狂言作者奈河篤助近松徳三なんど打より、歌舞伎狂言に引直す、是小説本、歌舞伎に直すはじめなり、是によつて日々に評判よく、又右小説本大いに流行して、貸本屋は三日切の札をはり、足をそらざまになして、街をはしる有さま、浪花の賑ひ、言語に絶し、筆にも盡しがたし、此時市川團藏、盜賊自來也の役に、好みにて脇ざしの鞘を朱のあらき海老ざやを用ゆ、是より此さやの名を自來也鞘と義、又は烟草入の張拔筒などにも、此形を用ひ自來也筒とよび、大に流行す、また右狂言にて羽織のひも、眞田紐の三角に組しを用ひてより、是又自來也紐とよんで大に流行し、今に至て專ら用ゆる人多し、
江戸の作家で脚本化された小説としては、鬼武が一番早かつたのであります。京傳の「稻妻表紙」は文化三年に出版されて、文化五年の正月には.中座と角座と兩方で出し物にして居ります。それから馬琴のものなども、大坂で芝居になりましたが、一番先へ芝居になつたのは、鬼武の「自來也説話」だつたのです。だからこの「自來也」といふ作物は,大分評判でもあり、注意されても居つたことがわかります。
自來也の出所
それから「國字小説通」の説をこゝへ出して置きますが、大當りの讀本といふものは、この「自來也」のみならす、外國種の嵌め物が多かつたことは,誰も知つてゐるところであります。
先第一當時讀本の巨擘たる里見八犬傳は、水滸傳に據て作りしは、皆人の知る所なれども、其中にいろく拍按驚奇等種々の小説を交出せし所もあり、美少年録は擣犹間評に、侠客慱は好遽賛による、其他稻妻表紙の醉菩提を模し、自來也の類書纂要に擬たる如き枚擧に遑あらず.
だから鬼武も相常に支那の小説雜書を讀んで居つたものと思はれる。從來この「自來也説話」といふものは,「類書纂要」から抜出したものと云はれて居りますが、これは五祖の言葉であります。つまり法演禪師といふ人だらうと思ふのですが、勿論五祖の云はれた中には,自來也などといふ名前が出てゐろわけではない。その言葉は「大惠武庫」にありますから、それを出して置きませう。
五祖云く三乘の人、三界の獄を出る、小果必ず方便を籍る、地を穴り壁を穿ち、及び天窓の中より出るが如し、唯だ得道の菩薩は初より地獄に入つて、先づ獄子と相疑はず、一切常の如し、一日信を寄せ去れば、酒肉を覓め得て、獄子に與へて喫せしめ、大醉に至て、獄子の衣服行纒頭巾を取りて、自身を結束し、却て自身の破れたる衣服を將て、獄子に與へて著せしめ、枷を移して獄子の頂上に在き、坐せしめて牢裏に在き、却て手つから獄子の藤條を捉り、公然として大門より出で去る、參禪の人、須らく恁麼にして始て得べし。
小説化された我來也の話
ところがこの五祖の話が,宋の沈俶の「諧史」の中には、もう大分小説めかしくなつて現れて居ります。前の話といふものは、禪宗坊樣のお悟り話なのですが.今度はさうでない、全く世間話になつてゐる。大分長うございますから、大意を申述べることにしますが、五祖の話に無かつた泥坊の名が、「諧史」では「我來也」といふことになつて居ります。
この我來也の話といふのは,趙師睾といふ人が臨安府尹の職に在りました時分に、臨安城内に頻に賊が忍び込む。さうして忍び込んだ家毎に、必す「我來也」と書殘して行く。といふ變な泥坊があつた。それが評判になりましたから、嚴重に捕方を命令しましたが、容易につかまへることが出來ません。さうかうしてゐるうちに、城内のみならす、そこでもこヽでも大評判になりま
したが、いゝ按配に我來也を取押へたといふので、府廳へ途つて參りました。そこでこれを牢に繋いで吟味をしましたところが,なかノ\服罪致しません。又贓品その他の證據物も出て來ないので、どうも結審することが出來す、久しく獄に繋いでありました。賊は牢に居ります間に、だんノ\牢の役人と心易くなつて,或時獄卒に對してかういうことを申しました。私は泥坊をした
おぼえはあるから、無罪にならぬことは知つてゐるが、我來也といふのは白分ではない,だからそんなにひどい刑を受けることは無いと思ふが、無罪で出られる身體ではない、何にしても當分娑婆へは出られないにきまつてゐるから、一つ大目に見て貰ひたいことがある、シカ%\のところへ行つて,取つて來て貰ひたいものかあるのだが、それは取つて來てくれゝばあなたに上げ
る、あのまゝにして置けば,品吻もどうなつてしまふかわからないし、罪滅しの一つだと思ふから、どうか取つて來て貰ひたい、長々御世話になつた御禮にしたい――。これを度々云ふものですから、最初は何を云ふかと思つて取合はすにゐたけれども、遂に牢屋の役人も動かされて,それでは一つ取りに行つて見よう、といふことになりまして、云はれたところへ行つて見ると、成程澤山の金があつた。本當に大金が隱してあつたものですから、次の朝は早く出勤して,牢役人の方から内證で酒肉をその賊に御馳走してやりました。
それから又しばらく經《た》ちますと、どうも先度は捨てたと思つてゐた金の在處を教へたら、御馳走をして貰つて難有かつた、まだあの外に甕《かめ》の中へ入れて、或橋の下の水中に隱して置いたのがある、それを取つて來て貰ひたい、といふことを賊が云出した。牢屋の役人はそれを聞いて,彼處はいけない,夜も晝も人通りの多い、賑かなところだから、とても彼處へ行つて、川の中に沈めてある甕なんぞが持出せろわけのもんぢやない、彼處はだめだと云ひますと、いやさうでない,あなたのお上さんが洗濯物を|蘿《いがき》に入れて、あの川まで持つて行つて、歸りには甕を蘿の中に入れ、甕の上へ洗濯物を引掛けて持つて來れば、目に立つことは
無いから、是非やつて御覽なさい、持つておいでなされば、その金は前より澤山あるが,それは無論前の通りあなたに上げる,といふことでありました。一度味を占めて居りますから、獄卒は家に歸つて、その通りやつて見ますと,果して大變な金が隱してあつた。そこでこの牢役人は,愈≧その賊を大事にかけて、いろ/\心づけをしてやつて居ります。
さうしますと或晩のこと、大分夜が更けてから、泥坊が俄に大變なことを云出した。御頼みだからちよつとこゝを出して貰ひたい、夜明までにはきつと歸つて來るから,どうかちよつと出して貰ひたい、と云ふのですから、これには牢役人も驚いた。そいつは困る、牢屋から勝手に出してやるわけには行かない、と云ひますと,その賊が少しキッとした樣子になつて、私はあなたに迷惑をかけるやうなことは決してしない、假に私が歸つて來ないにして見たところが、囚人に迯げられたといふだけならば,免職位で事は濟む、若しあなたが聞いてくれないならば、此間うちから大金を上げてある、あの事を申立てる、さうすればなかなか面倒になつて、免職位では濟みますまい、私の云ふことを聞いてくれて、免職になつて見たところが、あの金さへあればあなたは一生樂に暮して行けるぢやありませんか、併し私は決してあなたに迷惑をかける氣は無いから、夜明までには必す歸つて來る、それでも私の頼みを聞いてくれないかどうか、と云つて懸合ひ込まれた。牢役人も仕方が無いので、たうとう内證で出してやることはやりましたが、さあそれからが氣が氣でない。あゝは云つてゐたけれども、果して歸つて來るか知らん、と思つて心配して居りましたが、夜明近くになりますと、賊は約束逋り屋根傳ひに歸つて來て、獄舍の庭に飛下りた。やれ/\よかつたといふわけで、直につかまへて牢屋へ入れまして、知らん顏をしてゐる。
ところがその翌朝になりますと、臨安府の重立つた役人のところへ泥坊が入つて,例の通り「我來也」といふ三字を書殘して行つた、といふことがわかつた。府尹の趙師睾は、あゝさうであつたか、道理であの賊が服罪せぬと思つた、我來也を慥に牢に入れてあると思つたのは間達で、まだ捕へられて居らぬに達ひない、それでは此間のやつは間違であらう,といふので、百敲か何かの處分で,例の賊は所拂になつて牢を出ることが出來ました。
話替つて一方例の牢役人が、或晩宿直をして翌日自分の家に歸つて參りますと、細君が留守の間の話をして、昨晩遲く門を敲く者がある、或は御歸りなすつたのかと思つて出て見ますと、一人の男が二つの袋を投込んで歸つて行きました、その男は誰だか一向わかりません、といふことでありました。どんな袋か出させて見ますと、金銀の道具がいろ/\入つてゐる。さては例の
賊が御禮にかういふものを持つて來たんだらう、と思つてよく見ますと、その代物は先日上役のところで盜まれたものに相違無い。これでたうとう我來也なる者は、聰明の評判であつた趙師睾ですら、その奸を見破ることが出來す、僅な罪で牢を出てしまつた。それからその牢役人は、無事につとめて居りましたが、病氣といふやうな名目で辭職しまして、生涯樂々と暮すことが出來た。たゞその子に放埒者が出て、その金をすつかり使ひ果して後に、昔話としてその金を貰つた話が世間に傳はつた、といふのであります。
不都合な「舊觀帖」の改編
かういふ風になつて,五祖のお悟り話が「諧史」の中にある。それを基として自來也が出來たものゝやうに思はれます。それですから鬼武といふ人は、支那の小説、雜書の類を相當讀んでゐたことがわかります。京傳や馬琴の學問に就ては、あるとか無いとかいふことが云囃されて居りますが、鬼武に至つては、何程の讀書があつたものであらうか、とさへ云はれて居りません。
この人の學問その他に就ても、大に調べて見なければならぬのですが、一向わからないのはまことに惜しいことだと思はれます。
殊に合卷の「児雷也豪傑譚」が出來てから、この方が弘まりまして、原作である鬼武の方が却て忘れられさうな形になつてゐるのは、氣の毒でもあり、惜しい事でもあると思ひます。鬼武の事に就ての穿鑿は、すべて等閑になつて居ります爲に、「舊觀帖」などは、中本として知られた方の作であるに拘らす、後來は三編九冊本といふものになつて居ります。本當は初編一冊、二編二冊,三編一冊で、それに鯉丈が繼足しをした四編二冊でありますのを,序跋を拔きさし致しましたり、本文を分合したりして、さういふ編成のものにしてしまつた。一九や鯉丈の名も刪つた上、何だか聞いたこともない白馬白華などといふ者の名で、いゝ加減に文章を補つたりしまして、一編上中下三冊,三編まで全部で九冊といふ、全く貸本屋の都合のいゝやうに拵へてしまつたのです。これは當時の讀者といふものが、一々本を買ひませんで,貸本屋から借りる方が多うございましたから、貸本屋の側から云へば、一度に餘計貸した方が便利である。讀本などのやうなものは、最初から一帙數冊になつて賣出されてゐるといふ風ですから、その邊の便利を考へて、中本なんぞの方にも、貸本屋の爲に冊數、體裁を擅に變へることがありました。鬼武が
さういふ都合上の分合をやられたのみならす、隨分他の作者もやられて居りますが、自作でないものを一緒につゝ込んで、全部鬼武の作のやうにするといふのは、實に怪しからん事でありまして、鬼武に對しては殘酷な話だと思ひます。
中本研究の不足
今度こゝに取出しましたのは、舊本による一編から三編までの四冊でありまして,鯉丈の繼足した四編は捨てることにしました。つまりもと/\通りの體裁で掲出したのですが、「舊觀帖」のもとの姿、もとの體裁がどんなであつたか、それを考へろ人も無いといふことは、まことに遺憾千萬な話であります。これは從來中本といふもの、調べが、全く缺けて居つた爲でありまして
今後少し丁寧に中本の調べを致しましたならば、かなりいろ/\な收穫がありさうに思はれます。鬼武の傳記の如きも,もう少しわかつて來なければならぬ筈であります。
同じ中本作者である岡山鳥、あれは岡嶋權六と云ひまして、神田淡路町の近藤某といふ旗本衆の家來でありましたのが、一度浪人し、その後又歸參したりしてゐる聞に、中本その他いろ/\の著作をして居ります。これが多分鬼武などと似通つた人物であつたらうと思はれます。旗本なぞには用人をはじめ渡り奉公をするものが澤山ございました、是は今日は帶刀し、明日は無腰
になる、武士の階級にも,庶民階級にも固着しない渡世の人間があつたのです。
中本の作者に限つたことではありませんが、江戸文學の中に數へられるところの作家には、かういふ風な人が多かつたといふこと――それはたゞ士の畠から出たといふだけでなしに、半官半民といつたやうな人が、大分あるやうに思はれる。かういふことも亦大に考へて見なければならぬ處でありまして、どうしてさういふ階級に作者が出たかといふことは、大分面白い研究事項ではあるまいか、と考へるのであります。
(三田村鳶魚)
【補】
鳶魚の解題は、作品には殆ど触れず、まるで児来也の解説のようだが、「旧観帖」は、「田舎者」の描写が多い。
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