何をわれわれの文學は西洋の文學思潮に負ふか。思想としてはいかなる觀照態度が、形式としてはいかなる表現樣式が、西洋文學のわれわれへの寄與であるか。
此の問題の考究には、まつ、時代の決定が必要である。
單に西洋文學の紹介された歴史について云ふならば、われわれは文祿の初年まで遡ることができる。文祿二年(一五九三年)には「イソホのファブラス」が口語體に飜譯されて天草で出版された・同三年(一五九四年しにはアルヴァレスのラテン文法が天草で出版された。その中に、キケロ、ヴェルジリウス、ホラテ・ウス、リヴィウス、セネカ等のラテン詩人からの章句が引用されてゐた。少し下つて慶長十五年(一六一〇年)には、バレトーの が長崎で飜刻された。「舊約聖書」「新約聖書」の章句や古典詩人の詞章をラテン語で集めたもので、古典詩人には前記文法書の引用の外に、ホメーロス、ヘロードトス、クセノブハーネス、ヱウリピーデス、プラトーン、アリストテレース等があつた。それに依つてわれわれは、豐臣時代から徳川時代の初期へかけて、少くとも宗門の間では、當時すでに西洋古典の鑑賞が行はれてゐたことを推定することができる。けれども、それが果してわれわれの文學の主潮にどれだけかの影響を與へたであらうかは疑問である。
その後キリシタンは禁止となり、各種の宗門書と共に西洋の文學も一般に傳播する機會を失つた。
併し西洋文化の流入はそれきり杜絶されたわけではなかつた。長崎(ポルトガル人)、平戸(オランダ人、イギリス人)、浦賀(エスパニヤ人)の亙市場の内、初めに浦賀が閉鎖され、次いでイギリス人が追はれ、オランダとポルトガルと競爭の結果、後者が負けて長崎を見棄て、其處ヘオラング人が平戸から移されて、商館の設立を公認された。それが寛永十八年(一六四一年)であつた。それ以來長崎出島のみが西洋と交渉するわが國唯一の門戸となつた。其處にはオラングのカピタンが毎年の交替で滯在し、數名の日本通詞が附屬した。官憲の嚴重なる監視の下に、一般日本人と紅毛人との接觸は禁止された。長い間、通詞の家だけが西洋語の貯藏所であつた。併し、通詞等といへども、西洋語を話すことは許されながら、西洋文學を讀むことは許されなかつた。此の不合理な状態が一世紀ほどつづき、延享元年(一七四四年)に至つて初めて青木昆陽の理解ある取りなしに依つて幕府は通詞のうち三家(西、吉雄、本木)だけにオランダ文書讀譯の特許を與へた。併しその他の者は依然として西洋文學から遮蔽されてゐた。
けれども壓迫はいつまでも有效にはつづかなかつた。幕府は西洋文化の侵入を恐れたけれども、人心は却つて西洋文化を迎へようとした。未知を既知にしようとする熱情が次第に機運を作つた。元祿から享保へかけて、その機運は十分に成熟した。新井白石は熱心なる西洋研究者であつた。彼は「采覽異言」正徳三年(一七一三年)と「西洋紀聞」同五年(一七一五年)を編纂した。江戸切支丹屋敷に幽閉されてゐたローマの布教師シロテ(ジォヴァン・バッティスク・シドッティ)からの聞書に據つたものであつた。將軍吉宗は或る意味に於いて西洋研究の機運の最大の助成者であつた。彼は科學の研究に興味を持ち、自身天文暦法には相當の造詣もあり、暦法家算學家を集め、また藥物本草の栽培を奬勵し、地理學測量術にも力を注ぎ、これ等もろもろの科學的研究の方法としてオランダ語學習の必要を痛感し、青木昆陽、野呂元丈をして、毎年江戸參覲のカピタンに就いて學習せしめ、次いで青木昆陽を長崎に留學せしめた。延享元年(一七四四年)のことであつた、謂はゆる蘭學の道がこれから開けた。
青木昆陽の後に前野良澤が出た。杉田玄白が彼と共に學んだ。その|頃《(二)》の蘭學者としては麻田剛立、後藤梨春、桂川甫筑、同甫周、平賀源内等があつた。前野良澤と杉田玄白の遺鉢を傳へた者には大槻玄澤(磐水)があつた。玄澤の後には息磐溪の外に、稻村三伯(海上隨鴎)、橋本宗吉、山村才助等が出た。宇田川玄隨(槐園)の嗣玄眞(榛齋)も玄澤の後進であつた。その子榕庵は、坪井信道、箕作阮甫、佐藤信淵等と同學であつた。信道の門には緒方洪庵が出で、洪庵の門には福澤諭吉が出た。勝海舟の安政二年(一八五五年)の手記に據ると、當時江戸在住の蘭學者五十八名といふことであつた。いづれも一家を成した者で,その數は決して少いとは云へなかつた。けれども蘭學の流行もその邊で行き詰まつて、漸く形勢一變の徴候が見えてゐた。
それは蘭學の代りに、英學、佛學、獨學が興りかけてゐたことを意味する。從來蘭學の所管は幕府の天文方であつたが、安政二年に獨立の組織となり、越えて同四年(一八五七年)には蕃書調所と稱して一種の學校組織となり、文久二年(一八六二年)には洋書調所と改稱され、翌三年(一八六三年)には更に開成所《四》と改稱された。これは單なる名稱の改變ではなく、同時に内容の改變でもあつた。印ち、語學として蘭語の外に英語が加へられ、英語の方が却つて盛んになり、學科としては醫學、藥學、地理學の外に、數學、物理化學が加へられ、更に造船術、航海術、築城術、兵術等が研究されるやうになつた。それから明治維新までは數年であつた。慶應二年(一八六六年)には幕府は遂に海外留學を公認し、開成所最初の留學生として、箕作奎吾、菊池大麓、中村敬輔、林董三郎、外山捨八等、十四名の少年がイギリスへ送られた。享保以來約一世紀半、初めは僅かにオランダ語に依つて科學の一端を學習するにとどまつてゐたものが、次第に防ぎきれない力となつて、遂にはイギリス語に依り、フランス語に依り、ドイツ語に依つて、科學のあらゆる部門が攷究せられるやうになつた。此の情勢は、幕府の崩壞に件ふ社會組織の變動に煽られて、急激に政治的色彩を帶びるやうになり、廢墟の上に新城の建てられる前の混亂の中で、自由民權が叫ばれ、國會開設が唱へられ、憲法制定が論ぜられた。すべて皆西洋文化を目標としないものはなかつた。驚くべき歐化主義が明治初年の日本に充滿した。
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2005年03月13日
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